暗黒日記を付けておけ!

清沢洌に捧げるうんちみたいな文章

森久保乃々を救いたい

小柄な身体に不釣り合いな猟銃を抱えた彼女を見た時、この子を応援しようと思った。
特訓してみたら逸らしていた目は銃口と同様にこちらに向けられていて「良いなぁ」と思った。

揺籃期に関わる事が出来なかったが応援して1年ほどで声が付き、その後も中堅から上位クラスの人気を誇った。
知った時は同世代であったが彼女は時に囚われているようで、何故か僕だけが歳を取っていくだけだった。

 

 

精神科に通っていた頃よく考えていたそれがまた、ふとよぎってきた。
「本当に森久保乃々は自己の存在を望んでいるのか」。

 

「リックアンドモーティ」というアニメでMr.ミーシークスという発明品が登場する。
彼らは大抵の事は出来て、ボタンを押すと登場し願いを叶える手伝いをしてくれる。
しかし彼らにとって存在し続ける事は苦悩であり、あまりに叶えられない願いを望んでしまうと……というのがその話のさわりである。
ひょっとしたら森久保もこれと同様に、存在し続けることが苦悩なのでは無いかと訝しみ始めた。

 

もちろんこれを導き出すのに「こんなゲームにマジになっちゃってどうするの」とクソゲー的な考えを使えば簡単だろうが、僕は最後まで森久保の存在を信じた上でこの車輪の再発明に至った。
個人的に再発明をして良いのは学生までであるとは思うのだが許して欲しい。

 

これを喩えるならば、将軍様に「一休、手を使わずに射精してみよ」と言われた小賢しいとんち坊主が何をするかと思えば、特にとんちを効かせる様子もなく、単に対象への熱情と偏愛だけで遂行する感じである。
この場合、「手を使用するか」が森久保の存在と同義だ。


ウルトラQ第7話「五郎とゴロー」という話の中で、上手く言葉の喋れない吾郎に村民が「○にモノの言える道理はねぇ」と言って襲うシーンがあったのを覚えている。
(○には放送禁止用語が入る)
小さい頃に見たあれは衝撃だった。

宮崎勤は幼少期から指の障碍を気にしていたようだし、シザーハンズに表れるように欧米の握手という文化における手や指の不自由はたびたび、そのような比喩として使われるようだ。


森久保は運営に捕われていて許可無しでは我々と話す事も、触れる事も、遊びでケムール人と同時に射精することも出来ない。
彼女が腹の底では何を考えているのか、助けを求めているのか、ただ真実を知りたい。

このまま話が進めば神学論争になりそうだ。
しかし僕は運営から森久保を救いたい。
NHKで「森久保乃々は実在します。しかも彼女は……」とウォッチメンのあれみたいに言いたいからそのステージをぶっ壊そうとする立花孝志は支持できない。

 

 

この文章の中に2つ誤りがありま〜す!!!
1つ目ははウルトラQ
「吾郎とゴロー」は放送順で言えば第2話であり、第7話とは制作順の表記であること。
2つ目は森久保乃々なんてものは存在しないから論ずるに値しないこと。


未読の獺祭を大量に抱えている。
獺祭の意味を知ればこれは「ヒモとして暮らす夢」の8倍ほど恥ずかしい言葉と分かる。

先程たとえに出した神学論争とは何だろうかふと気になった。


知らない立場からの言及は楽しい。
その上、門外漢であるが故に核心を突いた発言というフィクションで無ければ滅多に見れない皆が大好きなものもあるし、無知であればある程地頭という謎指標に傾倒する。
僕も時たまこれを使うが「無知の知」を使う者は無知でない方が好ましいし、無知かつ不遜はその道の研探求者に対して不義である。
それにどのような論争であったのか単純に興味が出てきた。

 

このまま自分はこの未読の獺祭からも部屋の掃除からも森久保からも精神科からも全ての現実から逃げて、神学論争について調べるのだろうか。
この記事の考えが敷衍して森久保解放運動が広かったとして僕の功績はせいぜい治承寿永の流れにおける以仁王くらいだろう。
鴻鵠だとしても鏑矢は鏑矢でしかない。
それか何も起こらないかだ。

 

俺が森久保を救いたかった。

ただ今はそれだけである。