乗り越えるべき壁 大原部長と千と千尋
壁を乗り越えるという事は創作において重要な役割を果たす。
その壁は現状の軋轢であったり過去のトラウマであったりするのだが。
その辺は「映画は父を殺すためにある」や通過儀礼に関して書かれた本に詳しい。
自分にどんなトラウマがあるだろうかと考えてみると、鶏に関するものがあった。
僻陬の親戚の家にて、二棟の鶏小舎の間を通り抜けようとなんの考えもなく実行した時に、金網からあの鋭い目に睨まれた時から、紅白のカラーリングや鋭い嘴 トサカやヒヨコまで鶏に関わる全てに嫌悪だとか畏怖だとかを抱いてしまった。
まあトラウマというよりドラえもんや二階堂やウィンストン・スミスが鼠を嫌うようなもので、恐怖症というのが正しい文法なのだが。
今でも変な夢を見る。
ある青年がいた。
眉目秀麗を現した彼に僕は惚れてしまった。
「何か彼の役に立ちたい」と都合のいい女のような思いに立った僕は「一緒に鶏舎に来てくれ」と告げられ、彼のかねてからの望みであった鶏姦を果たすべく、少し「嫌だなぁ」と思いながら不倶戴天とも言えるかもしれない連中の住処に向かった。
鶏舎は、むせ返るような鶏の生活臭で満たされていたが、彼は好んでこれを嗅いでいた。
彼の整った鼻は臭いを楽しむその動作によって完璧な形から崩れる。
犯したい鶏と性癖が奮わない鶏を峻別する作業に取り掛かり、僕は彼に相手にされなかった鶏を同一視しながら膝に乗せる。
そして彼の一挙手一投足に目を凝らしていた。
彼が犯し始めると同時に、僕の膝元にリアルな感触が認められた。
羽毛の柔らかさでさえも憎らしく、それでいて畏怖の対象として感じてしまう。
感覚は漸次的に鮮明となり、僕の膝に数羽の鶏を脳が確認した所で夢から覚めた。
起床時には、歯が全て陶器のように割れて無くなってしまう夢と同じ感覚を覚えたが、少ししてこれを夢分析してみたいという欲求が湧いた。同性愛、獣姦、鶏というトラウマ。
そして僕が愛していた彼が本当に愛したものは僕が嫌悪するものであった事。
なかなか普通ではない分析結果が出そうだがどうなのだろう。
案外、皆見る夢であって欲しいのだが。
トラウマというと大言だが、僕の中で司馬遼太郎は乗り越えるべき壁それにあたっていた。
こち亀で行動を派出所メンバーに監視されていた両さんが自分を賢く見せるため糊塗する方法として司馬遼太郎を読んでいた。
大原部長の「あいつが司馬を読むとは」という言葉は小学生の僕に「あの堅実な部長が読む司馬遼太郎の本とは、大層高尚な言葉で紡がれて知識人が長年の含蓄を最大限に発揮して読むものなのだろう」という偏見を植え付けた。
少し前にブックオフに行ったら項羽と劉邦上・中・下で300円だったので読めなくてもいいから買おうと思い買った。
手をつけてるみると、別に普通だ。
多少難しい単語は出てくるが、大方は文脈の中で推察できる程度。
その上、かなり面白い。
今になって考えれば、両津勘吉という道楽を擬人化した存在が小説であれ、歴史という人文科学に触れている事に部長は驚嘆していたのだろうと思う。
最後にこれから僕が乗り越えるべき幼少期最大のトラウマについて考えようと思う。
千と千尋の神隠しだ。
トラウマとなるのは豚へと変化していくシーンとカオナシという存在である。
豚への変化。
僕がトランスファー(主に人間から動物への変化 シークエンスで表される事が多い)というジャンルで抜けない元凶である。
何故このシーンがこんなにも怖いのか。
それは僕の幼少期にあると思うのだ。
テレビで放映された際、ちょうど妹が産まれて少し経っていた。
ともなれば母親とは数ヶ月まともに会えない状態になるだろう。
父親も不安に苛まれた状況で何も考えず生きている未就学児の相手を完璧に出来る人ではない。
5年程の浅い人生(恐らくこれは今も変わっていない)の中で経験した事のない不安があったはずだ。
恐らく、当時の僕は作中の親が変化していく状況を自分のものに照らし合わせたり投影したのだろう。
これを乗り越える事は出来るのだろうか。
周知のように人気作であり、賞も総ナメにしてきたような映画であるからテレビで放映される機会が多い。
僕からすれば、子供が見たらトラウマになりそうな「震える舌」や「鉄男」や「AKIRA」や「エレファントマン」が放送されるのと同じだ。
しかし、この作品は、名作として人種国籍信条老若男女を問わず万雷の拍手の中で迎えられる映画である。
僕が少し普通から外れてしまったのは15か16の頃、「武器人間」を見たからだと自己分析していたが、千と千尋について考えてこの認識は古きものとなった。
「千と千尋の神隠し」という歴史に残る超名作映画、マジョリティに迎合してでも礼賛出来ないという事が"生きにくさ"を引き起こす逆張りという個性を作ったのだろう。
死にたい辛い。